犬でも猫より小さなサイズのものなら大丈夫なのだが、それ以上になると理不尽な緊張感というか恐怖が無意識に湧き上がる。トラウマというやつだろう。昔から犬に関するいい記憶はないが、トラウマの原因になったと思われる記憶を特定することはできない。おそらく、今では意識には上らないような決定的な体験を幼少時にしたはずだ。優秀な医師に原因を取り除いてもらうか、大型犬の子どもを自分で育ててみるかしないかぎり、死ぬまでこの状態は変わらないだろう。
考えてみると猫は絶妙のサイズをしている。体長は4、50cmというところだろうが、それ以上大きいと困るぎりぎりのサイズだ。猫程度の大きさの犬ならこわくないのは、たとえ襲われても「素手で勝てる! 丸腰でも勝てる!」という絶対の自信がこちらにあるからだ。
リビアヤマネコを原種とする猫が人に飼われるようになって1万年近くだという。この間に体の形と大きさはほとんど変わっていないのが猫の特異な点だと「ねこの秘密」(文春新書)の著者はいう。犬がチワワのような小型犬から冗談だろとおののくような巨大犬に至るまで豊富に存在しているのと大きな違いだ。
猫の大きさが変わらなかった理由を著者の山根明弘氏は猫が品種改良に必要な管理可能性を犬のようにはもたないことを挙げている。もうひとつ「人間は、ねこの姿を、魅力ある完成された形とみなして、毛色以外の外見は、それほど変えたいなどとは思っていなかったのかもしれません」と書いている。
なるほどとは思うが、これだけでは私には納得がいかない。たとえ「管理」が困難でも猫のボディサイズを大きくする品種改良はできたと思うからだ。問題はその結果への危惧だ。ネズミや小鳥に対する超優秀なハンターである猫が逆に人間とりわけ乳児を襲う可能性だ。このため、経験的に人間の乳児を襲わない従来のサイズに猫の大きさを人為的に抑えてきたとも考えられるのではないか。
実験的にはネズミと一緒に育てられた子猫は成長してもそのネズミと同じ種類のネズミは襲わなくなるそうで、たとえ猫のサイズが大きくなっても、人間と近いところで暮らすかぎり、乳児を襲うことはないのかもしれない。が、いくらそれが事実であっても、猫のサイズアップがもたらす悪夢への危惧が人心から消えることはないだろう。
話が逸れてしまったので犬に戻そう。当然のごとく、苦手な犬にカメラを向けるという発想は私にはまったくない。ところが調べてみると、もちろん多くはないものの犬の画像が少なからず残っているのに驚いた。なぜか撮影場所もシチュエーションも全部覚えていた。いずれのケースでも画像の犬を撮ろうと思ったわけではない。別の撮影目的で撮影準備のできたカメラを首にぶら下げるか、手にもって歩いていたときに画像の犬たちにでくわしてほぼ反射的に撮ったものだ。
どうも犬に寄られた場合、カメラを構えてカメラに意識を集中することで犬に対する緊張感や恐怖をはぐらかしてしまう効果があるようなのだ。防衛本能の一種のような撮影というわけだ。戦場取材のカメラマンが交戦現場で手足が恐怖でぶるぶる震えるのにカメラを構えると震えがぴたっと止まるというのと一緒かも知れない。
8枚の画像のうちの6枚の画像の犬はリードを付けていない。残りの2枚の一方の犬はリードを付けているのに飼主が離してしまった。犬恐怖症の者にとって、町とはかくも危険に満ちた戦場であり無法地帯なのである(笑)。
これぐらい小さいと平気だが |
しつける前にリードをつけよう |
ハトでもここまで寄れるのに |
おしゃれな小型犬でもここまで寄られると |
この巨大犬にしてリードなしの恐怖 |
ガラス越しでも殺気を感じた |
リードは離してはダメ |
これぞ100点満点の正しいお散歩 |