睡眠というのは厄介だ。健康関連の記事や番組では病気の解説の後、予防法が箇条書きで示されるが、その定番となるのが、「十分に睡眠をとる」という一文である。不十分な睡眠は多くの病気の元であり、多くの病気の友なのだ。テレビを点けるとフィギュアスケートの選手が「1に睡眠、2にストナ」といっている。風邪薬のCMだ。
「十分な睡眠をとれ」といわれても、こちらにできることは、十分と思われる睡眠に当てるための時間を確保することだけだ。それで十分な睡眠の量と十分な睡眠の質が保証されるわけはない。ここで「安眠」という睡眠の理想形が出てくる。
「安眠」のための条件とはとりあえず、室内であること、静寂であること、暗いこと、寝具があることという4つではないか。私の場合は、この4条件の1つが欠けても睡眠に大きな支障となる。
外で眠るということはこの4条件の1つや2つではなく、驚くことにそのすべてを欠いた状態で眠るということだ。屋外での睡眠というのはまさに尋常ならざる特技としか考えられない。うらやましい限りだ。
以前は安眠のための寝具は高額な掛け布団というのが定番だったが、最近ではやれ枕だ、やれマットだといわれるようになった。高額な掛け布団、枕、マットの3点セットならパラダイスのような「安眠」に導かれるのだろう。うらやましい限りだ。
人体というのは充電式のバッテリーのようなものだろう。この動くバッテリーはいろいろな要素で充電されるわけだが、その主力となるのが睡眠というわけだ。いつでもどこでも眠れるという人は常に自らをフル充電状態にできる人という気がする。いつもポテンシャル切れの私としては、うらやましい限りだ。
2015年12月31日木曜日
2015年12月2日水曜日
裏通り
都市の魅力のひとつは繁華街とか歓楽街の存在だろう。繁華街にもいろいろなパターンがあるだろうが、基本的にはメインの表通りとサブの裏通りからなると考えてよいだろう。表通りの角を曲がる。それが裏通りだ。で、ちょっと歩くと別の通りにぶつかる。その通りも裏通りだという具合に、繁華街ではそうした通りがたまねぎの皮をむくように次々と現れていく。裏通りの層の厚さ、それが都市の特徴だ。簡単にいえば、都市は商業地区の面積が広いという当たり前のことなのだが。
で、ときどき街に出る。特に用事があるわけではない。かつては街に出なければできないことがいろいろあったが、今はない。街に出なくても地元周辺だけでやっていける。だから街に出るといっても無為にぶらぶら歩くだけ。それで結構、気分転換になるのだ。今は街に出る目的はそれしかない。観光客が集まるようなブロックもあるが、場違いな思いをしたり、気づかれをするだけで、気分転換にもならないので、そうした場所に足を踏み入れることはまずない。
向かうのは昔ながらの繁華街だ。ここでも本通りというか表通りを歩くことはあまりない。すぐに裏通りのほうに、陽の当たらないほうに折れてしまう。犬嫌いなのに野良犬的なサガをもっているらしい。平日の昼間のせいもあるが、裏通りは以前より活気も人通りも少なくなっている。以前は場末の裏通りにはやばさとか、いかがわしさとかいった、多少の緊張感を強いるような雰囲気があったものだが、今ではそうした界隈も遊興施設や店舗の閉鎖などでいたってノーマルな居住地区のようなムードを呈しつつあり、歩いても味気なくなった。
で、ときどき街に出る。特に用事があるわけではない。かつては街に出なければできないことがいろいろあったが、今はない。街に出なくても地元周辺だけでやっていける。だから街に出るといっても無為にぶらぶら歩くだけ。それで結構、気分転換になるのだ。今は街に出る目的はそれしかない。観光客が集まるようなブロックもあるが、場違いな思いをしたり、気づかれをするだけで、気分転換にもならないので、そうした場所に足を踏み入れることはまずない。
向かうのは昔ながらの繁華街だ。ここでも本通りというか表通りを歩くことはあまりない。すぐに裏通りのほうに、陽の当たらないほうに折れてしまう。犬嫌いなのに野良犬的なサガをもっているらしい。平日の昼間のせいもあるが、裏通りは以前より活気も人通りも少なくなっている。以前は場末の裏通りにはやばさとか、いかがわしさとかいった、多少の緊張感を強いるような雰囲気があったものだが、今ではそうした界隈も遊興施設や店舗の閉鎖などでいたってノーマルな居住地区のようなムードを呈しつつあり、歩いても味気なくなった。
2015年10月30日金曜日
壁画的なもの
ところどころで壁画的なものをみかける。ここで壁画的なものとは壁面の所有者自ら、またはその所有者の許可や同意を得た者が、その壁面に描画または造形をなしたものということにする。落書きとは違う。
こうした壁画的なものは以前はなかったように思う。商店のシャッターへの描画はかなり以前から見られたが、シャッターの登場そのものが戦後かなり経ってからだ。それ以前に遡ってもこの国に壁画的な文化があったようには思われない。その代わり、看板が相当に古くからある伝統文化なのだろう。
きっかけは公共構造物の側壁にさかんに描かれるようになったカラースプレーの落書きだろうか。一時は側壁という側壁がすべて落書きで埋め尽くされるのではないかと危惧するほどの勢いだったが、最近はずいぶん沈静化したようだ。これも元はといえば、アメリカのストリートアートの模倣にすぎなかったわけで、本場でももう廃れてしまったのだろう。この国の公共構造物の側壁が景観的に心地よいと思ったことはないが、いかにアート風であれ、落書きによってその景観がアップしたケースに立ち会ったことは個人的にはいちどもない。
大人のコントロールの下で子どもたちが描いたとおぼしい壁画もときどき見かける。閑静な住宅地にこんなカラフルなデコレーションが必要かという疑問がわくケースもあるが、執拗な落書きに悩まされた住民たちによる逆襲というか苦肉の策だったという可能性もある。
こうした壁画的なものは今後どうなっていくのだろうか。壁画的といえば、つい最近小学校の黒板にカラーチョークで絵を描き、登校した子どもたちを驚かせる美大の学生たちの活動がテレビで紹介されていた。はかない壁画。また、建築物にイメージを投影するアートなども注目されているようだ。こちらは幻影としての壁画だ。
こうした壁画的なものは以前はなかったように思う。商店のシャッターへの描画はかなり以前から見られたが、シャッターの登場そのものが戦後かなり経ってからだ。それ以前に遡ってもこの国に壁画的な文化があったようには思われない。その代わり、看板が相当に古くからある伝統文化なのだろう。
きっかけは公共構造物の側壁にさかんに描かれるようになったカラースプレーの落書きだろうか。一時は側壁という側壁がすべて落書きで埋め尽くされるのではないかと危惧するほどの勢いだったが、最近はずいぶん沈静化したようだ。これも元はといえば、アメリカのストリートアートの模倣にすぎなかったわけで、本場でももう廃れてしまったのだろう。この国の公共構造物の側壁が景観的に心地よいと思ったことはないが、いかにアート風であれ、落書きによってその景観がアップしたケースに立ち会ったことは個人的にはいちどもない。
大人のコントロールの下で子どもたちが描いたとおぼしい壁画もときどき見かける。閑静な住宅地にこんなカラフルなデコレーションが必要かという疑問がわくケースもあるが、執拗な落書きに悩まされた住民たちによる逆襲というか苦肉の策だったという可能性もある。
壁画というより壁漫画? |
すぐに別の絵柄に差し替えられた幻の壁画 |
壁画というより看板的なモニュメント |
こうした壁画的なものは今後どうなっていくのだろうか。壁画的といえば、つい最近小学校の黒板にカラーチョークで絵を描き、登校した子どもたちを驚かせる美大の学生たちの活動がテレビで紹介されていた。はかない壁画。また、建築物にイメージを投影するアートなども注目されているようだ。こちらは幻影としての壁画だ。
2015年10月25日日曜日
小さなくつ
道端に小さなくつがあるのに気づくことがある。きまって片方だけだ。もし左右両方があるとしたら、近くに持ち主本人がいると考えて間違いないだろう。
片方だけのくつは無用なものだが、それがないと持ち主の手元にあるもう片方も無用化してしまう。発見したのが上のアンパンマンのくつのように真新しい場合だと、他人事ながら心が痛む。親切な人は車に踏まれたりしないように、くつを道路端に置き直したり、目立つ位置に上げたりするようだ。
しかし、なぜ片方なのか。幼児の行動には謎があるから、本人が謎の理由でくつを片方だけはいて家に戻ることがないとはいえない。それでも、幼児の行動範囲は狭いので、なくなった片方のくつの捜索と回収は比較的楽なのではないか。
こう考えると、もっとも考えられる原因は、幼児を自転車に乗せていて、なんらかの拍子に片方のくつが脱げてしまうケースではないか。この場合は、1kmや2kmは移動した可能性があるので、探すのはたいへんだ。
1枚だけだが、片方だけの大人のくつも撮ったことがある。こちらは海岸が発見場所なので、海流によって左右のくつが離れ離れになってしまった結果だろう。大きな客船の乗客が誤って海に片方のくつを落としたが、そのために客船を止めるわけにはいかず、そのくつが海岸に流れ着いたということもありえないわけではない。この黒いくつがはたして水に浮くかどうかは不明なのだが。
個人的には、片方だけなくして困っているのが手袋だ。最近になってよくなくすようになった。原因はわかっている。カメラだ。外出時にカメラを持ち運ぶ習慣がついてからなくすようになったのだ。手袋をしたままではカメラは操作しにくいので、頻繁に手袋を外すことになり、それに比例して紛失の機会もおのずと増えるということなのだった。
片方だけのくつは無用なものだが、それがないと持ち主の手元にあるもう片方も無用化してしまう。発見したのが上のアンパンマンのくつのように真新しい場合だと、他人事ながら心が痛む。親切な人は車に踏まれたりしないように、くつを道路端に置き直したり、目立つ位置に上げたりするようだ。
しかし、なぜ片方なのか。幼児の行動には謎があるから、本人が謎の理由でくつを片方だけはいて家に戻ることがないとはいえない。それでも、幼児の行動範囲は狭いので、なくなった片方のくつの捜索と回収は比較的楽なのではないか。
こう考えると、もっとも考えられる原因は、幼児を自転車に乗せていて、なんらかの拍子に片方のくつが脱げてしまうケースではないか。この場合は、1kmや2kmは移動した可能性があるので、探すのはたいへんだ。
1枚だけだが、片方だけの大人のくつも撮ったことがある。こちらは海岸が発見場所なので、海流によって左右のくつが離れ離れになってしまった結果だろう。大きな客船の乗客が誤って海に片方のくつを落としたが、そのために客船を止めるわけにはいかず、そのくつが海岸に流れ着いたということもありえないわけではない。この黒いくつがはたして水に浮くかどうかは不明なのだが。
個人的には、片方だけなくして困っているのが手袋だ。最近になってよくなくすようになった。原因はわかっている。カメラだ。外出時にカメラを持ち運ぶ習慣がついてからなくすようになったのだ。手袋をしたままではカメラは操作しにくいので、頻繁に手袋を外すことになり、それに比例して紛失の機会もおのずと増えるということなのだった。
登録:
投稿 (Atom)