2015年10月30日金曜日

壁画的なもの

ところどころで壁画的なものをみかける。ここで壁画的なものとは壁面の所有者自ら、またはその所有者の許可や同意を得た者が、その壁面に描画または造形をなしたものということにする。落書きとは違う。

こうした壁画的なものは以前はなかったように思う。商店のシャッターへの描画はかなり以前から見られたが、シャッターの登場そのものが戦後かなり経ってからだ。それ以前に遡ってもこの国に壁画的な文化があったようには思われない。その代わり、看板が相当に古くからある伝統文化なのだろう。

きっかけは公共構造物の側壁にさかんに描かれるようになったカラースプレーの落書きだろうか。一時は側壁という側壁がすべて落書きで埋め尽くされるのではないかと危惧するほどの勢いだったが、最近はずいぶん沈静化したようだ。これも元はといえば、アメリカのストリートアートの模倣にすぎなかったわけで、本場でももう廃れてしまったのだろう。この国の公共構造物の側壁が景観的に心地よいと思ったことはないが、いかにアート風であれ、落書きによってその景観がアップしたケースに立ち会ったことは個人的にはいちどもない。

大人のコントロールの下で子どもたちが描いたとおぼしい壁画もときどき見かける。閑静な住宅地にこんなカラフルなデコレーションが必要かという疑問がわくケースもあるが、執拗な落書きに悩まされた住民たちによる逆襲というか苦肉の策だったという可能性もある。






壁画というより壁漫画?    


すぐに別の絵柄に差し替えられた幻の壁画


壁画というより看板的なモニュメント





こうした壁画的なものは今後どうなっていくのだろうか。壁画的といえば、つい最近小学校の黒板にカラーチョークで絵を描き、登校した子どもたちを驚かせる美大の学生たちの活動がテレビで紹介されていた。はかない壁画。また、建築物にイメージを投影するアートなども注目されているようだ。こちらは幻影としての壁画だ。

2015年10月25日日曜日

小さなくつ

道端に小さなくつがあるのに気づくことがある。きまって片方だけだ。もし左右両方があるとしたら、近くに持ち主本人がいると考えて間違いないだろう。



片方だけのくつは無用なものだが、それがないと持ち主の手元にあるもう片方も無用化してしまう。発見したのが上のアンパンマンのくつのように真新しい場合だと、他人事ながら心が痛む。親切な人は車に踏まれたりしないように、くつを道路端に置き直したり、目立つ位置に上げたりするようだ。



しかし、なぜ片方なのか。幼児の行動には謎があるから、本人が謎の理由でくつを片方だけはいて家に戻ることがないとはいえない。それでも、幼児の行動範囲は狭いので、なくなった片方のくつの捜索と回収は比較的楽なのではないか。



こう考えると、もっとも考えられる原因は、幼児を自転車に乗せていて、なんらかの拍子に片方のくつが脱げてしまうケースではないか。この場合は、1kmや2kmは移動した可能性があるので、探すのはたいへんだ。




1枚だけだが、片方だけの大人のくつも撮ったことがある。こちらは海岸が発見場所なので、海流によって左右のくつが離れ離れになってしまった結果だろう。大きな客船の乗客が誤って海に片方のくつを落としたが、そのために客船を止めるわけにはいかず、そのくつが海岸に流れ着いたということもありえないわけではない。この黒いくつがはたして水に浮くかどうかは不明なのだが。

個人的には、片方だけなくして困っているのが手袋だ。最近になってよくなくすようになった。原因はわかっている。カメラだ。外出時にカメラを持ち運ぶ習慣がついてからなくすようになったのだ。手袋をしたままではカメラは操作しにくいので、頻繁に手袋を外すことになり、それに比例して紛失の機会もおのずと増えるということなのだった。