2016年1月13日水曜日

もみじ


もはや時期はずれだが、私の地元に紅葉の名所はあるのだろうかとふと思った。調べてみると10か所くらいが紹介されており、驚くことにそのうちの3か所は私がときどきでかけるおなじみの場所だった。え~っという感じだ。

紅葉の名所といえば、山岳地形の山並みを秋色に彩るスケールの大きな景観や、湖、渓谷、滝などの水系とからめた絶景的な紅葉の光景が秋の季節映像としてテレビで毎年流されるものを想像するが、それらに比べれば私の地元の紅葉の名所とやらは頼りない。

たしかに3か所とも木が多い公園なので、11月の下旬から12月の中旬くらいの時期になると落葉樹の葉が変色し、あたりには秋の風情が漂う。しかし、それだけのことだ。それで充分だろう。それに3か所とも紅葉の主役といってよいもみじの木は少ない。

もみじというのもまぎらわしい用語だが、ここでは例のヒトデのような形をした、ぎざぎざのある葉を付ける木のことを言っている。紅葉のうちオレンジ、赤、ダークな赤までの華美な赤系の配色を担うやつだ。

もみじといえば、梅林はあるがもみじ林はないだろう。銀杏並木や桜並木はあるがもみじ並木はないはずだ。もみじは梅のように実が採れるわけでも、銀杏のように街路樹としてすくっと自立するわけでも、桜のように人々から愛されるわけでもない。木材としての有用性も高くないのではないか。

それでも古来からもみじの木がそこそこの本数生えている場所はあちこちにあるはずだ。残念ながら、私が見かけた場所はいずれも周囲の景観がかんばしくないので、どうしても木に寄ったり、葉のアップを撮ったりということになる。遠目にはわからないが、寄って見るともみじの葉というのは相当に傷んでいるものだ。アップに耐えられる状態のいい部分を探すのに非常に苦労する。葉脈の部分にはシミがあるし、葉の先端はいやな色に変色しているし、虫食いのように欠けている部分も多い。ダークな赤色をした葉は日焼けのような感じで、チリチリに縮んで丸まっている。

傷んだ葉を何枚か取り除けばなんとかなりそうな場合は、ちぎって落とすことになるわけだが、もみじの葉は指でつまんでちょっと引くだけでポロリと取れる。実は落葉樹は葉を落とす前に葉の養分を幹に回収し、葉と枝の結合力を故意に弱めて葉を落としやすくするのだそうだ。うーん。私の頭髪にも落葉樹の遺伝子が入っているような気がする。こちらは春になっても元通りには生えてこないというのが人間的というか、つらいところだ。

以下の画像には上記の「紅葉の名所」のもみじは含まれていない。いずれもそのへんで見かけたささやかな、というかせこいもみじの画像である。



























2015年12月31日木曜日

眠る

睡眠というのは厄介だ。健康関連の記事や番組では病気の解説の後、予防法が箇条書きで示されるが、その定番となるのが、「十分に睡眠をとる」という一文である。不十分な睡眠は多くの病気の元であり、多くの病気の友なのだ。テレビを点けるとフィギュアスケートの選手が「1に睡眠、2にストナ」といっている。風邪薬のCMだ。

「十分な睡眠をとれ」といわれても、こちらにできることは、十分と思われる睡眠に当てるための時間を確保することだけだ。それで十分な睡眠の量と十分な睡眠の質が保証されるわけはない。ここで「安眠」という睡眠の理想形が出てくる。

「安眠」のための条件とはとりあえず、室内であること、静寂であること、暗いこと、寝具があることという4つではないか。私の場合は、この4条件の1つが欠けても睡眠に大きな支障となる。

外で眠るということはこの4条件の1つや2つではなく、驚くことにそのすべてを欠いた状態で眠るということだ。屋外での睡眠というのはまさに尋常ならざる特技としか考えられない。うらやましい限りだ。

以前は安眠のための寝具は高額な掛け布団というのが定番だったが、最近ではやれ枕だ、やれマットだといわれるようになった。高額な掛け布団、枕、マットの3点セットならパラダイスのような「安眠」に導かれるのだろう。うらやましい限りだ。

人体というのは充電式のバッテリーのようなものだろう。この動くバッテリーはいろいろな要素で充電されるわけだが、その主力となるのが睡眠というわけだ。いつでもどこでも眠れるという人は常に自らをフル充電状態にできる人という気がする。いつもポテンシャル切れの私としては、うらやましい限りだ。









2015年12月2日水曜日

裏通り

都市の魅力のひとつは繁華街とか歓楽街の存在だろう。繁華街にもいろいろなパターンがあるだろうが、基本的にはメインの表通りとサブの裏通りからなると考えてよいだろう。表通りの角を曲がる。それが裏通りだ。で、ちょっと歩くと別の通りにぶつかる。その通りも裏通りだという具合に、繁華街ではそうした通りがたまねぎの皮をむくように次々と現れていく。裏通りの層の厚さ、それが都市の特徴だ。簡単にいえば、都市は商業地区の面積が広いという当たり前のことなのだが。

で、ときどき街に出る。特に用事があるわけではない。かつては街に出なければできないことがいろいろあったが、今はない。街に出なくても地元周辺だけでやっていける。だから街に出るといっても無為にぶらぶら歩くだけ。それで結構、気分転換になるのだ。今は街に出る目的はそれしかない。観光客が集まるようなブロックもあるが、場違いな思いをしたり、気づかれをするだけで、気分転換にもならないので、そうした場所に足を踏み入れることはまずない。

向かうのは昔ながらの繁華街だ。ここでも本通りというか表通りを歩くことはあまりない。すぐに裏通りのほうに、陽の当たらないほうに折れてしまう。犬嫌いなのに野良犬的なサガをもっているらしい。平日の昼間のせいもあるが、裏通りは以前より活気も人通りも少なくなっている。以前は場末の裏通りにはやばさとか、いかがわしさとかいった、多少の緊張感を強いるような雰囲気があったものだが、今ではそうした界隈も遊興施設や店舗の閉鎖などでいたってノーマルな居住地区のようなムードを呈しつつあり、歩いても味気なくなった。